丸亀市の「市民ひろば」が果たしてきた役割

前回は、市民ひろばを含む大手町地区4街区の再編整備の全体像をご紹介しました。

第2回の今回は「市民ひろばが果たしてきた役割」。掘り下げてみると、公園だけではない、意外な一面が見えてきます。

江戸時代から現代まで、武家屋敷、軍事拠点、行政・文化の中心地へと、時代ごとに役割を変えてきました。

市民ひろばと大手町地区4街区が、どんな歴史と役割をたどってきたのか。これから一緒に見ていきましょう。

みんなの憩いの場になっている市民ひろば

公園を散歩する親子や、園内のベンチに座り読書を楽しむ人。日差しが強い日に木陰で友人たちと会話を楽しんでいる市民の姿も。

市民ひろばでは、そんな日常の風景をよく見かけます。

休日や週末にはイベント会場として、毎年恒例の「お城まつり」をはじめ、フリーマーケットやマルシェなどが開催されています。

イベントと言えば、以前に開催されていた「日曜市」を懐かしく感じる方も多いことでしょう。

写真:丸亀市提供 昭和62年(1987年)10月撮影 ※画像を月刊マルータ編集室にて一部加工して掲載

こうした使われ方が始まったのは、高度経済成長期の勢いが残る昭和50年(1975年)頃から。

市民ひろばが開園する2年前の昭和48年(1973年)には、すでに「日曜市」が始まっていました。翌昭和49年(1974年)には「歩行者天国」もスタートします。

この頃から、週末になるとお祭りや日曜市の賑やかな場所としても定着していきました。

ではもっと昔、市民ひろばを含む「大手町地区4街区」が整備される前は、どんなことが行われていたのでしょうか。

* 大手町地区4街区について詳しく知りたい方はこちらの記事をご覧ください。

市民ひろばと大手町地区4街区が歩んできた歴史

「大手町地区4街区」は、基礎が作られた江戸時代から現代まで、丸亀城下の“要”としての役割を担い続けてきました。

  • 江戸時代は城下町の重要拠点として武家屋敷が形成
  • 明治時代は陸軍省の管轄となり軍事拠点となる
  • 戦後、昭和になると行政・文化活動の中心として旧丸亀市役所や旧市民会館を建設

いつの時代も「人が集まる、丸亀の中心地」であり続けたんですね。

武家屋敷から市庁舎へ。大手町が歩んだ400年

大手町地区4街区の歴史は、江戸時代の元和元年(1615年)の一国一城令による丸亀城の廃城から始まります。

寛永18年(1641年)、初代藩主・山崎家治氏が丸亀城を再築。同時に城下町も碁盤の目のように整備したのが、現在の大手町の基盤となりました。

万治元年(1658年)に藩主となった京極高和氏が、南側にあったお城の正門「大手門」を現在の北側に移築します。

大手門の真向かいとなったことで、名実ともに「丸亀城の玄関口」となった大手町。家老屋敷をはじめとする、重臣たちの屋敷が並ぶ一等地へと発展していきました。

出典:「大手町地区4街区南街区再編整備基本計画」(丸亀市)

現在の市民ひろばにも、「三番丁」と「四番丁」の位置に当時を忍ばせる標石が建てられています。

明治6年(1873年)に「廃城令」が出されますが「存城」に指定され、天守や大手門などの貴重な建物が残されました。

明治7〜8年(1874〜1875年)には陸軍省の管轄となり、終戦まで軍事拠点として機能しました。

戦後はいよいよ、行政・文化施設が集まる、現在の大手町へと生まれ変わっていきます。

写真:丸亀市提供 昭和59年(1984年)10月撮影

まず着手されたのが、昭和39年(1964年)に完成した旧市庁舎です。現在のシアターマドの場所に建てられました。

資料提供:丸亀市立資料館(昭和39年(1964年)〜43年(1968年)頃の地図) ※画像を月刊マルータ編集室にて一部加工して掲載

建設前の貴重な写真も残っています。

写真提供:丸亀市立資料館

現在の風景と比較してみるとこんな感じ。

旧市庁舎完成を皮切りに、昭和44年(1969年)に旧市民会館が、昭和50年(1974年)3月に市民ひろばが完成します。

写真:丸亀市提供 昭和58年(1983年)12月撮影

武家屋敷から軍事拠点、そして行政・文化の中心地へ。大手町地区4街区が、いつの時代にも重要拠点であり続けた理由はなんだったんでしょうか。

それは「港・駅・町・城」が直線距離にして約800mの中に並ぶ、全国的にも珍しい都市構造だったから。

出典:地理院地図(国土地理院)を月刊マルータ編集室にて一部加工して掲載

その軸線の中心地に、市民ひろばを含む大手町地区4街区があったからこそ、いつも「人が集まる中心地」であり続けたんです。

実は50年前とそっくり!? 5年周期で生まれ変わる4街区の再編

新・旧4街区の各施設の完成時期を並べてみると、おもしろい“数字の法則”が見えてきます。

半世紀前に完成した旧市役所から旧市民会館、市民ひろば完成まで見事に「5年周期」で整備が進みました。

実は現在進められている再編整備も、当時とほぼ同じ「5年周期」で整備が進んでいるんです。

表に並べてみると......

昭和の大手町整備
(約50年前)
令和の再編整備
(現在)
完成・変化の周期
旧市役所庁舎 完成
昭和39年(1964年)
新市庁舎・マルタス 開館
令和3年(2021年)
—
↓ (5年後)↓ (5年後)
旧市民会館 完成
昭和44年(1969年)
新市民会館
(シアターマド)
開館
令和8年(2026年)
5年後
↓ (5年後)↓ (令和5年〈2023年〉 噴水公園の臨時駐車場化から5年後)
市民ひろば 完成
昭和49(1974年)
* 開園は昭和50年(1975年)
新市民ひろば 開園
令和10年(2028年予定)
5年後

令和3年(2021年)新市庁舎・マルタスの開館から、令和8年(2026年)新市民会館シアターマドの開館まで5年。

噴水公園が臨時駐車場に変わり、再編が動き出した令和5年(2023年)から計算すると、新市民ひろばがオープンする令和10年(2028年)予定までも、ちょうど5年なんです。

昭和の大手町整備から「約50年後」の現在。同じ「5年周期」で、これからの「50年」を支える新しいまちづくりが今、進んでいるんです。

シニア世代の記憶に残る、あの頃の賑わい

市民ひろば前を歩行者天国にして開かれていた「日曜市」。夏には周辺で盆踊り大会も。

写真:丸亀市提供 昭和62年(1987年)10月撮影 ※画像を月刊マルータ編集室にて一部加工して掲載

道沿いに露店が並び、市民が集うイベントとして長年親しまれてきました。

「また復活してほしい」という声が今も聞かれるほど、市民の心に残る催しだったんです。

賑わっていたのは、市民ひろばだけではありません。

1970年代、丸亀駅周辺の商店街は中讃エリア(丸亀・坂出・善通寺・宇多津など)の中心的な街として活気にあふれ、大型商業施設も次々とオープン。週末は家族連れで賑わっていました。

日曜市に盆踊りや、商店街と、どこも人でいっぱいで丸亀の街全体が賑やかだった時代。

市民ひろばもその中心にあって、多くの丸亀市民にとって「みんなで集まる場所」として、記憶に刻まれていったんです。

写真:丸亀市提供 昭和62年(1987年)10月撮影 ※画像を月刊マルータ編集室にて一部加工して掲載

行政主導から市民主体へ、関わり方もこれから変わっていく

これまでの賑わいは、あくまで行政が整えた"枠組み"の中で市民に親しまれてきたものです。

「行政が用意した場所に、私たち市民が集まって楽しむ」という側面が強かったんですね。

これからの再編整備が目指すのは、行政主導のエリアづくりからもう一歩踏み込んだ、市民主体の活用です。

市民一人ひとりが主役となってマルシェやイベントを企画し、大手町地区4街区をもっと賑わいのある場所にしていく。

出典:「大手町地区4街区南街区再編整備基本計画」(丸亀市)

新しい4街区のコンセプトは「市民の舞台」です。これまでの「集まる場所」から、「市民が自ら企画し、動かす場所」へと変わっていきます。

まとめ

今回のポイントを振り返ってみましょう。

  • 大手町地区4街区は江戸時代から現在まで「丸亀の中心地」であり続けてきた
  • 中心地となった理由は「港・駅・町・城」が直線距離にして約800mの中に並ぶ、全国的にも珍しい都市構造だったから
  • 昭和の大手町整備も、令和の今進む再編整備も、同じ「5年周期」で進んでいる
  • 日曜市や盆踊りで賑わった昭和の記憶は、今も多くの丸亀市民の心に残っている

歴史を辿っていくと、市民ひろばは単なる憩いの場ではなく、丸亀市の"要"であり続けた場所だったとよくわかりますね。

次回は「なぜ今、あらためて再整備するのか」。その具体的な理由について、詳しくご紹介していきます。

お楽しみに!