ノスタルジックな風景が残る牛島。
現在では人口6人の静かな島ですが、江戸時代には廻船業で繁栄を極めた興味深い歴史をもつ島でした。
牛島の繁栄を象徴する人物こそ、“内海の海上王”と呼ばれた丸尾五左衛門(まるお ござえもん)。
この記事では牛島の現在の様子と、丸尾五左衛門をはじめとする牛島の歴史をご紹介します。
島に残る往時の面影が、きっとドラマチックに感じられるはずです。
牛島の現在を訪ねる
牛島の周囲は4.2kmの小さな島で、令和8年(2026年)6月1日現在の人口は、6人。丸亀市にある5つの塩飽諸島(しわくしょとう)のなかで2番目に小さい島です。
丸亀市の北側7.7kmに位置する島で、丸亀港から旅客船に乗れば約15分で到着します。

牛島行きは旅客船のため、車やバイクなどの車両は乗船できません。最寄りの丸亀市営港駐車場を利用しましょう。
牛島まで大人往復で940円。

牛島への旅客船は基本的に、昼の往復2便のみです。
1. 丸亀発 → 牛島(里浦港)経由 → 本島行
| 丸亀 | 牛島(里浦港) | 本島 |
|---|---|---|
| ※ 12:10 | 12:25 | 12:30 |
2. 本島発 → 牛島(里浦港)経由 → 丸亀行
| 本島 | 牛島(里浦港) | 丸亀 |
|---|---|---|
| ※ 14:15 | 14:21 | 14:35 |
牛島へ出かける際は、本島汽船株式会社公式サイトで最新の時刻をチェックしておきましょう。
牛島にはコンビニやスーパー、飲食店がないので、訪れる際は食料や飲料水を忘れずに。
牛島行きの旅客船乗り場は、切符を買った待合所の左側にあります。

乗船は出航の20分前から可能です。

横開きの少し重いドアを開けて船内へ。

ただ「重いドアを開けて入るだけ」ですが、非日常を感じるには十分な体験でした。

出航後、しばらくしてデッキに出てみることに。

風と水しぶきが思った以上に激しく全身にあたってびっくりしました。瀬戸内海を渡っていることを、改めて実感させてくれます。

昔の船乗りたちも同じように感じていたのでしょうか。

牛島の北側にある、里浦港に到着しました。

船着場は海のほうに突き出している突堤(とってい)になっているので、天気がいいと瀬戸内海と瀬戸大橋が一望できます。

船を降りると右手に赤灯台が見えました。

船着場から歩いて1分ほどの場所なので行ってみます。
海沿いの遊歩道を歩いていると、さっきまでいた丸亀市街地の喧騒がウソのように、のどかな景色が広がっていました。

昔、沖縄の石垣島へ旅行に行ったときに感じた、ゆったりとした時間を思い出します。

瀬戸内海の景色を眺めながら歩いていると、あっという間に赤灯台に到着。

正式名称は「牛島灯標」と言います。

赤灯台は昭和9年(1934年)に設置されました。灯台あたりは昔から、船の座礁が多い場所だったそうです。
海中に設置されているので、間近で見られないのが残念でした。

実は赤灯台へ行く道の途中に、“内海の海上王”と呼ばれた丸尾五左衛門の屋敷跡があります。
その場所がこちら。

明治時代の中期までは現存していたそうですが、現在は跡形もなく、石垣のみが名残をとどめています。

のどかな時間が流れる現在の牛島ですが、江戸時代は船で荷物を運ぶ廻船業で賑わっていました。

丸尾五左衛門と牛島の歴史
周囲4.2km。歩いて一周できるほど小さな牛島に、江戸時代は300人以上が暮らしていました。
かつて廻船業で賑わいをみせた牛島ですが、現在は6人の島民の方が暮らす静かな島となっています。
この章では、栄枯盛衰を見てきた牛島の歴史をご紹介します。
“内海の海上王”と呼ばれた丸尾五左衛門
牛島をはじめ塩飽諸島は江戸時代、廻船業で繁栄していました。
寛文12年(1672年)に江戸幕府は、日本海側から瀬戸内海を通って大阪・江戸へ米を輸送するルートを開拓しました。

同時に、廻米輸送を幕府が直接管理する方式にしたことで、輸送を請け負った塩飽諸島の船屋が一気に台頭していきます。
台頭してきた船屋のなかで象徴的な人物だったのが、“内海の海上王”と呼ばれた、牛島の丸尾五左衛門(まるお ござえもん)。
幕府の専属廻船問屋になった初代から4代目までの約100年間、栄華を極めました。
実は「丸尾五左衛門」とは世襲名なんです。
当時の牛島にいた廻船問屋は、全員、大規模な千石船の船主でした。

延宝7年(1679年)の記録によると牛島の船主は52人、総石数4万8,750石分の船を所有していたそうです。
一人当たり平均940石分の船(千石船)を所有していた計算になります。
「石(こく)」とは米の重さの単位です。現代の重さに換算すると1石=約150kg。
牛島の廻船問屋を運送会社に例えると、10トントラックを15台所有しているような会社です。
そんな“運送会社の社長”が52人も、小さな牛島にいたということになります。
なかでも丸尾五左衛門の規模は、群を抜いていました。

牛島の船持が平均940石に対し、丸尾五左衛門は1万1,130石分もの船を所有していました。
丸尾五左衛門の船が頻繁に瀬戸内海を往来していたことがわかる、当時の唄が残っています。
「沖を走るは丸屋の船か、丸にやの字の帆が見える」
そんな五左衛門の富と影響力を示すエピソードをご紹介します。
ある日大阪の豪商・鴻池を五左衛門の屋敷に招き、三日三晩にわたり盛大な宴会を行いました。
鴻池が大阪に帰る際、家宝である珊瑚の杖を屋敷に忘れてしまったそうです。江戸時代の珊瑚は、とても希少で高価なものでした。
慌てて戻ってきた鴻池に対して五左衛門は、奥から高価な珊瑚の杖を山ほど持ってきて、その中から探すようにと伝えたそうです。
また、江戸幕府の五代将軍・徳川綱吉から厚い信頼を得ていた浄厳和尚を牛島に招いたこともありました。
将軍さえ信仰するほどの高僧を、五左衛門は訪ねるのではなく、島に招いたところに影響力の大きさがわかりますね。
丸尾五左衛門の屋敷跡近くには、極楽寺が建てられています。

歴代の丸尾五左衛門のお墓があるとされていますが、見つけられませんでした。

境内には「無間の鐘」と呼ばれる梵鐘(ぼんしょう)が今も残っています。

無間の鐘には「鐘をつくと栄華を極めるが、必ず没落して無間地獄に落ちる」という言い伝えが残っています。

鐘を撞いたとされる五左衛門は、奇しくも言い伝えのとおりになっていきました。
享保5年(1720年)幕府の直営方式が廃止となったのを皮切りに、丸尾家は衰退していくこととなります。

戦後から急激な人口減少に陥った牛島
五左衛門を含め、牛島の廻船業が衰退しはじめてから120年経った天保11年(1840年)でも牛島の人口は91戸333人を保っていました。
島民の方の証言によると、戦後まで200人ほどが暮らしていたそうです。

狭い場所に立ち並ぶ廃家の隙間を、細い道が縫うように張り巡らされていました。

生活路を眺めていると、かつて大勢が暮らしていた牛島の風景が目に浮かびます。

この広場に集まって、世間話でもしていたんでしょうか。

賑やかだった時代に毎日使われていた物も、現在では枯れ木の中に埋もれてしまっています。

家は朽ちたり、荒れたりしているところもありますが、石垣はきれいに残っていました。

極楽寺の裏手には聖神社(ひじりじんじゃ)があります。

境内には歴史を感じさせるだんじりが置かれていました。

お祭りの際は島民が集まり、このだんじりをかいて島内を練り歩いていたのかもしれませんね。
牛島の中央には、南北をつらぬく一本の大きい道があるんです。

旅客船を降りた北側の里浦港から、南の牛島漁港まで約10分ほどの道。
南北をつらぬく道の真ん中あたりに集会場があります。

集会場には、牛島がまだ賑やかだった昭和の頃の写真が展示されているようですね。

道から外れた場所ですが、すぐそこなので行ってみることに。

玄関を入ると、正面の壁に当時の写真がずらりと並んでいます。

壁沿いに奥へ進むと部屋があり、そこにも所狭しと写真が飾られていました。

なかには、学校の集合写真も。

実は、集会場に向かう道の途中に学校跡があるんです。

賑やかな頃の学校写真とは裏腹に、現在は校門の後だけが静かに名残をとどめています。

戦後まで200人が暮らしていた牛島。現在は6人が暮らす、静かな島となりました。

江戸時代の繁栄から現在までを見続けてきた牛島
大小さまざまな船がせわしなく行き交う瀬戸内海のなかで、時が止まったような牛島の存在に心惹かれたのが、今回訪れたきっかけでした。
実際に訪れて感じたことは、繁栄の跡を見てしまった切なさ。

牛島を取材した数日後、知り合いから「牛島って何があるの?」と聞かれて返答に困り、「正直、何もない」と答えたのです。
何もないと答えたはずなのに、なぜかまた牛島に思いを馳せている自分に気がつきました。
切なくもノスタルジックな風景が、どうしても頭を離れません。

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