月刊マルータ創刊のいきさつ
2015年5月。僕は友人から「香川でフリーペーパー出しそうな人知らない?」という相談を受けます。聞けば岐阜で20年になる全戸配布の情報誌が全国に仲間を作るという話。僕は高松のある会社を紹介しましたが、検討の結果やらないという結論に。そこで上がったのが県内第2の都市、丸亀市での創刊という話です。
丸亀市が候補になったのは
・城下町は地元愛が強い
・中讃で商圏が独立している
・世帯数的に成功事例が多い
という理由だったそうです。
こうして2015年11月「月刊マルータ」が誕生しました。商圏が地続きの宇多津でも配ります。マルータという名前は当時の関係者の間で出し合った案のうち僕の案が採用になったものです。しかし僕はあくまで紹介者、応援出資者のひとり、そして時間が自由になったんで営業の手伝いを始めました。
一度目の危機 ずっと赤字で資金がつきる
広告の受注が超難しく立ち上げは本当に大変でした。マルータには印刷、紙、制作、配布で毎月数百万円かかり、これを全て広告収入でまかないます。よく聞かれますが、どこかの補助とかは無く全て自前です。広告が足りないと即赤字のシビれる世界です。
初期の広告集めは困難を極めました。メンバーの飛込営業はゆうに1,000軒超え。でも、マルータなんて誰も知らない。何か胡散臭いし。そんな反応にしょんぼりしました。
「で、いつ紙をやめてネットにシフトするの?」と、金融関係者に真顔で指摘されたことも。
やっとの創刊後もしばらくは反響もまだまだ。ずっと赤字。資金はあっという間に底をつき銀行残高がいろいろ全然足りない瞬間を何度も目にしました。いつ廃刊になっても不思議でない状況でした。毎月不安と闘いながら営業活動をし、費用を削るため自分達で原稿を書き続けました。
そして2016年9月、僕が代表を引継ぎました。どうしてもマルータの灯を消したくなかったのです。11月号の1周年でロゴや誌面の刷新、その後引越しと社名変更した頃から、事務所の電話も鳴り始め(それまでは無音の置物)、2018年にやっと初の単年度黒字、何とか廃刊を免れました。
そんな中で広告を出してくださった今までの全てのクライアントさまにはもう感謝しかありません。
二度目の危機 配布できなくなる
しかしある日突然、配布委託先の会社さんから2019年3月に事業から撤退、と伝えられます。元の配布ルートだった公報誌の配布辞退という、いわば連鎖撤退。「マルータが配れなくなる…」
ゆめタウン丸亀の立体駐車場でぐるりと外を見回して(ここは絶景ポイント笑)、「マルータエリアって絶望的に広いわー」って改めて焦りました。全戸配布はマルータの命。そして僕が決意したのが「外注はせず、全部自前で配ろう」ということでした。
実はマルータの全戸配布は「適当にその辺全部」ではなく、住宅地図に1件ずつ印を入れながらめちゃくちゃ丁寧に配ってます。だから、エリア割りを決め、地図を作り、人を集めるという作業は大変です。同業の先輩から「準備は絶対6ヶ月いる」とも言われる中、配布立ち上げメンバーの昼夜休日も問わぬ献身的な努力で、なんと半分の期間で自前配布の準備を終えました。
ただ最初なので配布員さんの人数が揃わない。結果、編集や営業のスタッフも総出で配ることに。というか今もたま〜にやってます。僕もスーパーカブや電動バイクに乗って配ったりします。でも最初の時に比べるとメンバーも安定して、誤配も桁違いに少なくなって一安心となりました。
しかし何と、忘れた頃にさらにまた一難が。
三度目の危機 大黒柱、倒れる
2021年11月8日。同年12月号制作ラストスパートの月曜。毎月ここで日程の最終調整に入ります。朝からスケジュールの確認ミーティング。僕は所用で遅れて昼前に入りましたがその時、
「楠田さん、ともちゃんの様子が変です」
編集のまもが僕に教えてくれました。ともはメールが打てないと言い、言葉も出てこず、ふらついている状態。大黒柱の、ともに異変です。
なぜだったか記憶が定かでないですが、とにかく僕は「脳」の検査を、と思いました。僕の車の助手席にともを乗せて、以前自分がMRI検査を受けた脳外科を目指します。「帰って寝る」「ごめん帰らんで病院行くね」という会話が道中の記憶に残っています。高速を走りつつ編集室と連絡しあっているうちに妻(まるはは)がもっと近くの病院に話をつけてくれました。
この時こんな大事になるとは思っていませんでした。病院に着きMRIの前に、看護師さんから
「頭の手術をしたことはありますか?金属とか入ってませんか?」
と質問されても、もう本人には通じませんでした。短時間で意識レベルが相当下がっています。結局、検査はMRIでなくレントゲンになりました。
結果は脳出血。500円玉大の出血がレントゲン写真でも見えました。緊急手術のため、すぐ救急車で総合病院に移送です。僕は来た車で高速に乗り、先回りして救急搬入口で救急車を待ちました。
ストレッチャーから下ろされたともの横にいた看護師さんの一言だけが、その時の記憶に残っています。「血圧239」。
仲間が立ち上がってリカバリー
ともは今では僕以外で唯一の創刊メンバー。エース営業、企画、メインライター、撮影、進行管理も「全部」やってきました。
彼女がいなければの今マルータはない。
知っている人は全員そう答えるでしょう。その彼女がこの瞬間に編集室からいなくなった。
そして数日後、とものお姉さまがいらして僕に「妹はもう元の生活はできないとお医者さんから言われました。後遺症で言葉も使えません。子育ても難しくなります。みなさんとても心配してくれるのはありがたいですが、だからこそ、もう妹を待たずに仕事に集中してください。妹もきっとそれを望んでいます。」と言われました。
実は2ヶ月前から、ともの仕事時間をかなり減らしていたが間に合わなかった…。マルータが無ければともは倒れずに済んだ…。自分はともと、息子さん、家族の皆さんに大変なことをしてしまった。
茫然自失の僕の横で、仲間の皆んなが立ち上がってくれました。今までの状況が皆目わからない「とも専任案件」を全部フォローし、力強く12月号を作り上げてくれたのです。この状況でチームはひと回り強く、逞しくなっていました。僕は完成した12月号をコロナで接見禁止の病院に届けました。
その間ずっと僕は周囲に「ともは半年で帰ってくる」と言っていました。みんなもそんな感じだったと思います。そして、どんな形でも復帰できるよう、エレベータなし三階の今の編集室に代わる平屋の物件も探していました。
でもそれは徒労でした。ともは2ヶ月後に自分の足で編集室に復帰したのです。
月刊マルータ発行人 楠田 寛









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