2022.01.24 おすすめ記事 中の人が語る!公式HPにも載っていない中津万象園の歴史。

中津万象園から参りました、広報のY口です。普段は中津万象園・丸亀美術館内もろもろのご案内やイベント開催をお知らせ、SNSでは万象園の様子をほぼ毎日発信し、皆さんに当園の魅力をお伝えするべく日々奮闘しています。

丸亀市中津町にある日本庭園・中津万象園は、今年で開園40周年を迎えます。中津万象園は、もともと江戸時代に丸亀藩主だった京極家が、1688年から約100年かけて造った大名庭園です。その時点で造園から100年が経っているのに、「開園40周年」とはこれ如何に?この疑問に答えるべく、中津万象園の歴史について簡単にご説明します。

明治維新以後、所有者を転々とする万象園

江戸時代、京極家のお殿様が築庭した当時は中津万象園という名前ではなく、「中津別館」や「中津の御茶所」などと呼ばれていました。「万象園」という名前は、1884(明治17)年に長州藩出身の貴族院議員で書道家の野村素軒が来園した際に、扁額を揮毫して命名したものです。野村素軒は行く先々で請われるままに命名・揮毫していたといいますから、全国各地にある「ドイツ村」的な軽いノリで付けた名前なのかも知れませんね。
※建物の内外や門・鳥居などの高い位置にかける額・看板に文字を書きおろすこと

明治時代後期には多度津町の富豪・竹田久太郎氏が中津万象園を所有。太鼓橋の架け直しなど園内を整備した後、海水浴場として公開します。当時は讃岐鉄道(現在のJR予讃線)にも夏季限定の臨時駅・中津駅ができ、多くの海水浴客で賑わったといいます。また、松に囲まれた洲浜には築山とその周りを囲む池などをつくり、「万象園北庭」と名付けて新たな観光スポットになりました(現在の市営中津グラウンド)。

荒廃したお庭を修復し、現在の形に

竹田氏の手を離れた後は、大財閥の鈴木商店、地元名士など所有者が転々としますが、いずれも日常的な手入れは行われませんでした。一部の松は枯れ、池には一面アシが生い茂り、茶亭には床からキノコが生え、あずまや・橋は朽ち果て……園内は次第に荒廃していきました。

特に1946(昭和21)年の昭和南海地震の影響は大きく、約1メートル地盤沈下したため、園内の池に海水が入り込み、組石は崩れてその多くが水没しました。こうして年々荒れていく間も海水浴場としては存続していたため、当時をよく知るご年配の方からは「草ボーボーの園内を通り抜けて中津の浜へ泳ぎに行った」という思い出話をよくお伺いしています。

持ち主を転々として荒れ果ててしまった万象園。「京極家の文化財がこのまま消えてしまうのは、丸亀市の大きな損失になる」と、詫間町に本社を置く富士建設社長の眞鍋利光が中津万象園を買い取りました。1970年のことです。

園内の修景にあたっては、造園家・中根金作氏に指導を仰ぎました。当時、整備が始まっていたさぬき浜街道は計画の変更を依頼、当初は万象園の真上を突き抜ける計画だったそうです。それ以外にも樹木の植栽や植え替え、池ざらえ、庭石の組替え、橋の架け替えなどを行い、古図面に描かれたり漢詩に詠まれた美しい庭園の昔日の面影に近付けました。池の畔には美術館を新設、現在の「中津万象園・丸亀美術館」として公開したのは1982(昭和57)年8月1日のことでした。

開園40周年記念企画進行中!

それから今年で、ちょうど40年になります。「開園40周年」には、1982年から生まれ変わった万象園という意味合いがあったのです。富士建設も開業70周年の節目の年になりますので、中津万象園でも記念事業を計画しています。またマルータ誌上の当コラムでもお伝えしてまいりますので、どうぞお楽しみに。

ちなみに、京極高豊が最初に中津別館を造った年(1688年)から数えると(電卓を叩く)、
……今年で334年目!?

去年が333周年だったのですね……(ゾロ目周年を祝い損ねました)。

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丸亀市の貴重な文化財である「中津万象園・丸亀美術館 」。歴代藩主たちが約100年の歳月をかけて造り上げた大名庭園をいっしょに守っていきませんか?「支援したい!」という方には当園のファンクラブ的な組織である丸亀京極万象園賛助会へのご入会をお願いしています。応援、どうぞよろしくお願いします。

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中津万象園・丸亀美術館 概要

中津万象園・丸亀美術館
〒763-0054香川県丸亀市中津町25-1
http://www.bansyouen.com/

中津万象園が表紙!
月刊マルータ2021年9月号